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イベント情報

「飯田隆先生・丹治信春先生古希記念ワークショップ」開催のお知らせ [2019年02月12日]

開催日:2019年3月17日

会場:日本大学文理学部3号館3205教室

3月17日(日)に、「飯田隆先生・丹治信春先生古希記念ワークショップ」を開催いたします。皆様の参加をお待ちしております。

日時:2019年3月17日(日)13時30分〜17時50分

   (参加費無料)

   ※ワークショップ終了後、懇親会を実施します。

    会費3000円(学生・求職中の方1000円)

    懇親会のみ参加の方も歓迎いたします

会場:ワークショップ— 日本大学文理学部3号館3205教室
   懇親会 ———— 日本大学文理学部3号館1階コスモス
   https://www.chs.nihon-u.ac.jp/access/

ワークショップ開催趣旨

 飯田隆先生と丹治信春先生が、今年度で古希を迎えられ、日本大学を退職されます。お二人の先生は、(日本大学だけでなく)日本の哲学界において指導的役割を果たされ、多くの学生を指導し、また多くの研究者に少なからぬ影響を与えてこられました。本ワークショップは、両先生の長年にわたる御功績を讃え、そして両先生から頂戴した御指導に感謝の意を表することを趣旨として企画されました。

 ワークショップ終了後に、立食形式のパーティを開催します。パーティでは、直接お二人の先生と話す機会が設けられます。パーティにも奮ってご参加ください。

提題者
村井忠康(お茶の水女子大学)

 「飯田氏の知覚の哲学における過程の不在について」

   13:35-14:20予定

峯島宏次(お茶の水女子大学)

 「日本語の形式意味論」

   14:20-15:05予定

 休憩15:05-15:20予定

秋吉亮太(早稲田大学)

 「飯田氏の論理学・数学の哲学をめぐって」

    15:20-16:05予定

関口浩喜(福岡大学)

 「丹治哲学とウィトゲンシュタイン哲学」

   16:05-16:50予定

 休憩16:50-17:05予定

鈴木貴之(東京大学)

 「意識に関する物理主義的自然主義の可能性」

   17:05-17:50予定

発表要旨

村井忠康「飯田氏の知覚の哲学における過程の不在について」 
 飯田氏の哲学的業績としてまず挙げるべきは、言わずと知れた『言語哲学大全』である。しかし、『大全』に代表される、いわば本流ともいえる氏の言語哲学関連の仕事からは、氏の熱心な読者なら知っているように、多くの支流が伸びている。知識や懐疑論についての論考に始まり、われわれの概念枠組みの限界の探求というストローソン・エヴァンズ的な試み(たとえば、知る人ぞ知る初期の傑作「テレポートとテレパシー」など)、カヴェルやマクダウェル、ローティのような分析哲学の内部批判者、そして、彼らの着想元としてのウィトゲンシュタインを意識した自身の哲学的伝統への内省的考察、さらには、日常のことばで語る哲学の実践として、一昨年書き下ろしを加えてまとめられた一連の対話篇など、氏の哲学的業績の範囲は、一般に思われている以上に広い。本発表では、そうした支流のひとつであり、近年、氏が精力的に取り組んでいる知覚の哲学での仕事を中心に紹介する。そのうえで、氏の知覚論において出来事と状態の区別が果たしている役割に焦点を合わせ、私なりの疑問を呈してみたい。
 飯田氏の論考において出来事と状態の区別が論じられることはあっても、両者と過程の区別が論じられることはまったくない。それどころか、出来事や状態と並ぶ事象カテゴリーの一種を表す名前として「過程」が使用されることさえない。たしかに、過程と呼びうる事象が「進行中の出来事」という特徴づけのもとで取り上げられはする。しかし、進行中の出来事は状態とされることもあれば(『言語哲学大全IV』、「「見る」と「見える」」)、出来事の一種とされることもある(『虹と空の存在論』草稿)。過程をめぐる氏の立場のこのようなぶれは、ひとえに過程という事象カテゴリーに対する氏の過小評価に起因するように思われる。本発表の目標は、氏の知覚論における出来事と状態の区別に関する議論が、じつのところ、出来事とも状態とも異なる事象カテゴリーとして過程を考慮することを要請していると指摘することである。

峯島宏次「日本語の形式意味論」
 日本語で哲学の問題について考えたり、書いたりするとき、一見すると、量化や記述といった言語哲学や論理学の標準的な道具はそのままの形では日本語に当てはまらないように見える。飯田隆『日本語形式意味論の試み(1)-(3)』(2000-2001)に始まる同氏による日本語意味論の一連の研究は、この種の違和感を出発点として、言語学にも適用可能な文字通り体系的な意味論を構想し、具体化したものとみなせる。この発表では、その膨大な日本語意味論関連の研究の一端を、形式意味論の予備知識を仮定せずに紹介し、議論を深めることを目的としたい。一連の研究には、「知る」や「見る・見える」のような哲学でもよく知られた表現から、受身と使役、テンスとアスペクト、情報構造に至るまで幅広い話題が含まれる。なかでもこの発表では「複数論理」のアプローチのもとで、言語の問題と論理・存在論の問題とが交差する名詞句の意味論を中心に検討する。

秋吉亮太「飯田氏の論理学・数学の哲学をめぐって」
 論理学・数学の哲学は「論理的真理の必然性の源泉とは何か」「数とは何か」といった論理学や数学に関する哲学的な問題を扱う分野であり、こうした問題は哲学の歴史において中心的な問題であり続けてきた。飯田隆氏の哲学者としての長いキャリアにおいても、これらの問題は重要なものとして取り扱われている。このことは,例えば,『言語哲学大全I』(勁草書房)におけるラッセルやフレーゲの論理学・数学の哲学に関する詳細な検討や、同書第II巻での規約主義や構造主義に関する極めて精緻な議論に見いだすことができるだろう。
 本発表では、飯田隆氏の論理学・数学の哲学に関する業績を簡単に紹介しつつ、その重要性を発表者個人への影響を振り返りつつ検討することで、いくつかの論点に光を当ててみたい。

関口浩喜「丹治哲学とウィトゲンシュタイン哲学」
 丹治信春氏が『言語と認識のダイナミズム』(以下、『ダイナミズム』)において提唱した「補償の原理」は、「大きな理論変化のただ中でも「理解」が可能であり、コミュニケーションが可能であるための条件」を与える原理である。それゆえ、「補償の原理」は、言語が変化しながらも流通し、しかも変化の前後において言語が断絶せずに存続することが可能となるための条件を与えるための原理である(『ダイナミズム』205頁)。さらに、この「補償の原理」がクワインによって「特別扱い」された「観察文」にまで拡張・適用されることによって、「補償の原理」は「真にグローバルな原理」となり、「言語のどの部分にも「意味」や「文法的規則」とかを設定することなしに、言語の安定性を支える一様な制約」として働くことになる(同269頁)。
 この「補償の原理」にもとづいて丹治氏が提示する言語理解のモデルは、「グローバル」であるのみならず、「柔軟な」言語理解のモデルであるとも言える。というのも、たとえ「それを否定することは不可能であるように見える」命題(ウィトゲンシュタインの「世界像命題」)であっても、「補償の原理」を適用すれば「原理上否定不可能というわけではない命題」と見なすことができるからである(同301頁)。したがって、丹治哲学における言語理解のモデルでは、ウィトゲンシュタインの「世界像」概念が引き起こすとされる、文法規則に対する経験の影響という問題も生じない(同269頁)。
 このようなグローバルかつ柔軟な言語理解のモデルを提示する丹治氏からすると、ウィトゲンシュタインが『確実性』において提示した「世界像」概念は、言語理解のモデルとしては不十分なものであり、硬直的なモデルである。氏によれば、「文法・言語規則としての世界像と、経験的な真偽探究の対象となる命題との二分法(事実と意味との二分法)の構造がある」がゆえに、ウィトゲンシュタインの「世界像」という考え方では「われわれの言語理解と認識のダイナミックな側面を、十全に捉えることができない」のである(同296頁)。
 しかしながら、このような丹治氏の指摘にもかかわらず、はたして『確実性』におけるウィトゲンシュタインの関心が『ダイナミズム』における丹治氏のそれと重なるものであるかどうかについては、若干の疑念が残る。端的に言えば、『確実性』のウィトゲンシュタインが「言語理解のモデル」の構築を主要な関心の対象としていたとは私には思えないのである。(もっとも、『確実性』においてウィトゲンシュタインが格闘していた問題の核心は何であったのか、私自身明瞭に摑めているわけではない。もしかするとウィトゲンシュタイン自身にとっても、それは最後まで明瞭ではなかったのかもしれず、ウィトゲンシュタインが格闘していたのは、自分が格闘の対象としている問題の核心が何であるのか、それを明瞭に見定め、明瞭な言葉に定着させようとすることであったとさえ言いたくなる気持ちが私にはある。)
 今回の発表では、丹治氏の観点と関心とからは不十分なものとして批判されたウィトゲンシュタインを可能であれば弁護してみたい。そして、ウィトゲンシュタインという「比較の対象」を設定することを通じて、丹治哲学の特質の一端を明らかにすることができればと考えている。

鈴木貴之「意識に関する物理主義的自然主義の可能性」
 丹治信春は、近年の論文(丹治2001; 2010)において、意識の物理主義的な理解可能性に疑問を呈し、それに代わる反物理主義的な自然主義の可能性を検討している。これは、意識に関する自然主義者の立場としては珍しいものである。本発表では、丹治の批判に対して物理主義的な自然主義を擁護するともに、そもそもこれら二つの立場のあいだで実質的な論争は可能なのかどうかを考えてみたい。
 丹治が意識に関する物理主義的な自然主義を批判する論拠は、意識の物理的なものへの付随性を認める物理主義者の立場では、意識の心的なものとしての因果的効力を説明できず、それゆえ意識の進化を説明できないということである。しかし、このような議論は、いくつかの点で明確化が必要であるように思われる。第一に、これは、マクロレベルの現象や機能的な存在者一般に成り立つ議論ではないと考えられる。第二に、これは、生命や遺伝など、付随性が成り立つと考えられるもの一般に成り立つ議論でもないと考えられる。このように考えたとき、この議論の内実は、かならずしも自明なものではないように思われる。
 丹治の議論の根底にあるのは、意識あるいはそのクオリアとその基盤である物理的なものとのあいだには必然的な連関を見出すことはできないということであり、その最終的な根拠は、クオリア逆転やゾンビの思考可能性であるように思われる。しかし、そうだとすれば、このような議論は、意識の物理主義的な自然化不可能性を何らかの形で論点先取しているようにも思われる。
 ここで、物理主義の是非に関して中立的な問いの設定がそもそも可能なのだろうかという疑問が生じる。丹治が提唱するのとは異なる意味で、われわれには、新しい考え方や新しい語り方が必要なのかもしれない。

連絡先:日本大学文理学部哲学科事務室

     philein@chs.nihon-u.ac.jp

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最終更新日 - (c)2006 科学基礎論学会
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